あなたのすべて

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　幽鬼は一人前のエージェントとして実戦に出るようになり、本部へ詰めていることが多くなった。
　表向きは、セルバンテスが開設しているカレッジへ入学し、カワラザキの下を離れたという形になっている。
　幽鬼がいなくなって二か月余りが過ぎた朝、カワラザキは自分のところへ届けられた朝刊に目を通し、満足げにうなずいた。
　ひとりの男の死……かつて夫人を哀しみの底へ沈めた男の死が載っている。
　カワラザキは幽鬼の仕事始めとして、個人的なことではあるけれども男の抹殺を命じた。
　資産家である男にBF団への協力を命じたが、男は拒絶した……その大義名分があれば組織も納得するし、幽鬼には今まで育ててくれた彼女への礼としての仕事を与えたのだ。
　このニュースを彼女にも知らせてやろうとカワラザキはリビングへやってきた。
　そこでは所狭しとばかりに、彼女がたくさんの箱を開いて荷物を詰めている。
「これは……」
「あ、旦那さま、申し訳ございません。間もなく片づきますので」
　見れば箱に詰めているのは幽鬼の服や食品。
「あの方の寮にいらっしゃるとのことですから、物には不足していらっしゃらないでしょうけれど、幽鬼さまはご自分で服など買われないでしょうし、食べ物の好き嫌いもおありですから」
　そう言いながら少し楽しそうに荷造りをしている。
　カワラザキは苦笑してなにも考えず……そう、本当にカワラザキは考えていなかったのだ……新聞の記事を彼女に示した。
「この男は……お前の知っている男ではないのかな」
　見出しを見た彼女は一転して真剣な表情になり、自分の立場を忘れて新聞をカワラザキからもぎ取って凝視する。
　何度も何度も文字を目で追い……やがて放心したようにつぶやいた。
「……しばらく……ひとりにしていただけますでしょうか……」
　カワラザキがうなずいてリビングを出るのと、中からカギのかかる音がしたのは同時だった。


　カワラザキは自分の書斎へ戻ると幽鬼に電話をした。
『じいさまか……』
「幽鬼、唐突だが、そこから夫人の心が読めるか？」
『できんことはない』
　しばらくの間があり、幽鬼の声がする。
『彼女は……あの男への憎しみを糧に生きてきた部分がある。それがなくなってしまい、今は少し空虚になっているようだ。それと俺だな』
「お前が？」
『彼女のもうひとつの生きがいは俺の生育だったから……俺もいなくなってしまって余計に寂しさが増している』
「そう……か。もう少し、黙っておけばよかったか……」
『電話、代わってくれ』
　リビングにも子機がある。
　カワラザキはリビングのドアをノックして、ドアが開かないとわかっていて声だけかけた。
「ちょうど幽鬼から電話があった。お前の声がどうしても聞きたいの言うので……よかったら出てやってくれ」
　久しぶりに聞く幽鬼の声だからか、それとも幽鬼がそう操作したのか……泣いていたであろうに、カワラザキがドアに耳をそばだてると彼女が電話を取る声が聞こえた。


　幽鬼が話をしながら彼女の心を慰めたのかもしれないし、幽鬼の後ろにセルバンテスがいて眩惑術をかけたのかもしれない……とにかく十数分後には、彼女は急ぎ足でカワラザキの書斎に入ってきた。
「旦那さま！　幽鬼さまが今週末のお休みに帰られるそうですの！」
「ほう」
　先ほどの感情はどこへ行ったのかと思うほどの満面の笑みだ。
「送ろうとした荷物はそのときにお持ちになるとおっしゃって……ああ、それから、私の作るパイやマフィンを食べたいって……。こうしてはいられませんわ。旦那さま、ちょっと買い物に出かけてまいりますわね。それにシェフ殿には申し訳ないけれどキッチンを譲ってもらわなければ……」
　彼女がうきうきした足取りで出ていってから、カワラザキはもう一度幽鬼に電話した。
「ご苦労だったな」
『ふふ、育ててもらった相手を哀しませているわけにもいかんだろう』
「帰ってくるのか」
『慰める理由にしようと思ったが、あまり喜ぶから帰らざるを得なくなった』
「ふふふ、迷惑をかけるな」
『なんの、夫人のためなら厭いはせんさ。ただ……』
「なんだ？」
『いや、なんでもない』
　幽鬼は言葉を濁したが、彼女の哀しみは深いものであり、幽鬼の帰宅などというささやかな喜びは一時しのぎにしかならないのだった。
　そして彼女が弱気になったとき、哀しみは再び彼女を襲うこととなる。